「島守」に教わる意味
第87回選抜大会〔2015年〕に出場する沖縄県立糸満高校が、なぜ開幕5日前の3月16日〔月〕に、兵庫県立兵庫高校と練習試合をしたのか。兵庫高校の前身、旧制・神戸二中は、太平洋戦争の末期、最後の官選知事として沖縄に赴任し、「島守」と慕われた島田叡(あきら) さんの出身校である。1945年1月、内務官僚だった島田氏は米軍上陸が確実となった沖縄への知事就任を打診された。周囲に「俺は死にたくないから誰か行けとはよう言わん」と笑って向かったとの逸話が残る。赴任直後、沖縄半島北部や九州への県民疎開を進め、食糧不足から危険を顧みず台湾に渡り、米を調達した。玉砕が叫ばれるなか「生きろ」と言い続けた。6月、激戦地の糸満・摩文仁で消息を絶った。
島田氏は、神戸二中→旧制三高〔現京都大学〕→東京帝国大学で野球部に所属した。俊足好守の名選手だった。沖縄で毎年8月、新人大会優勝校に「島田杯」が贈られる。「沖縄の野球人には優勝旗よりも欲しい物」と言われる。島田氏の最期の地・糸満の高校が島田氏の母校との対戦を企画された、当時の上原忠監督は、「戦後70年の節目に甲子園に出て、島田氏の思いを生徒たちに伝えるチャンスだと思った」と語った。試合は14-6で糸満が勝利したが、兵庫は前半に見事な逆転劇、同点劇を見せた。17日の甲子園練習後に、糸満高校は、兵庫高校の校庭にある「顕彰碑」と「合掌の碑」を訪ねた。
兵庫高校の同窓会〔武陽会〕はある年に修学旅行の行先を北海道から沖縄県に変更してほしいと要望したが、学校は毎年、偉大な先輩を偲び、糸満を訪れている。その糸満・摩文仁には、「島守の塔」が1951年に建てられた。沖縄セルラースタジアム那覇〔那覇市営奥武山 (おうのやま) 野球場〕の駐車場からゆいレールの駅との間、ちょうどセンター後方の位置に、「島田叡氏顕彰碑」があり、球児たちを見守っている。野球をこよなく愛する皆さんには是非とも訪ねてほしいと願っている。
蛭間俊之