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ドジャースの32年ぶり世界一でアイク生原さんを思う

 日本野球のレベル向上に貢献した米球団がドジャースで、日米野球で来日するだけでなく、1961年に讀賣巨人軍がベロビーチで合同練習して徹底的に「ドジャース戦法」を学び、日本シリーズ9連覇の基礎を築いた。

 アイク生原〔生原昭宏〕さん〔福岡県立田川→早稲田大学→亜細亜大学野球部監督〕は、1965年に渡米し、ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からドジャースの職員になったといわれるが、私が大学時代に佐藤道輔先生〔都立東大和〕から直接、伺ったエピソードは球場内のレストランの皿洗いのアルバイトを辞めることなく、正確にこなして、そのうち選手ロッカー室の清掃を担当した。生原さんは、選手のスパイクをきれいに磨き、選手から驚嘆の声が上がり、やがては用具係の担当になったという。そのプロセスを都立東大和の160名をこえる部員たちは今も、鮮明に記憶しているだろう。いかに人間は信頼を勝ち取るか、を感じ取ったはずである。

 ヤクルト・長嶋一茂選手の面倒を見たり、中日・山本昌投手に投球のヒントを与えたり、世話好きで有名な生原さんは、日本にいる一般の野球ファンのご相談にもご丁寧な返事を送られ、京都出身で甲子園にもご出場されたある方はその分厚いお手紙の束を見ながら「親切の3乗」という独特の表現をされた。10月31日発行の夕刊フジに福島良一さんによる記事が出ていたが、アイク生原さんを話題にできる人がかなり減ってきたような寂しい気持ちになった。そういえば、1998年8月、ベースボールマガジン社常務取締役・田村大五さん〔新潟県柏崎OB〕の名コラム『白球の視点』メジャーリーグ・ツアーで生原さんのお墓参りが実現した。ロサンゼルス郊外にあるドジャースを支えてきたオマリー家代々のお墓の隣だった。2002年には特別表彰で野球殿堂入りされた生原さんに一度もお会いできなかったことが残遠だ。

蛭間俊之